父が死んだのでちゃんと生きようって話。

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父が死んで約1か月。

色々と考えたけど、よくわからない人だった。

 

どうやら、父という一人の個体には複数の面があって、確かに一つ塊なんだけど、場面ごとに、または相手ごとに見せている面が極端に異なる仕様だったのだと思う。その都度適した人物像を見せるので、父が提示する面には一個体としての統一的な性格がなくて、総合してその人を見たときに矛盾してるように見える。強いて言うと、この矛盾性、多面性がたぶん父の確かな性格なのかも?と死んだあとに今更ながら思う。

 

本記事は、「父が死んだという」ことに関して徒然に書いている、たぶん他人様の役に立たないけど私にとって必要な日記である。

 

 

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父が死んで1週間。多面性と、楽しかった記憶

 

父が死んだのは約1週間前である。私も最初の3日くらいは悲しくなったり平静に戻ったり、精神的に忙しく過ごしていた。1週間たった今も、時々悲しくなったり、ならなかったりする。

 

近親者が死んでも、私の場合は常に失意のどん底という訳では無いようで、逆に波のようなリズムの悲しみの扱いに困惑している感じだ。

 

最初はまるで突然の大きな波に飲み込まれそうな状態で、一瞬混乱して息継ぎもできない。天地が分からなくなるようで理解が追い付かない。

でもそんな大きな波も常に続くわけでは無く、徐々に弱くなって、水面を見つけて呼吸できるようになる。そして慣れた頃にまた予期せぬ悲しみに飲み込まれそうになるけれど、最初の頃のように大波に混乱することはない。

でも波なので、忘れた頃に足元まで迫っている。気づけばひざ下まで濡れている。

 

 

父の色々な側面

 

父は東京で単身赴任中、風呂場で死んだ。大動脈瘤破裂とかで、肺に血液が入って死んだらしい。激痛だったけど、多分早く意識がなくなったので、そんなに苦しくなかったかも?とのことだった。

 

発見してくれたのは会社の人だった。出勤しない父を心配してみに来てくれた。

自宅でなくなったので、刑事さんが来たり、行政解剖されたりしたらしい。解剖ってそんな身近なんだなと驚いた。きっとヘビースモーカーだったので、肺は真っ黒だったにちがいない。

 

 

そんな不健康な父は、私生活もみちからはずれたことをしていた。詳しくは書かない。

 

しかもこのみちからはずれたことをしたウンコ野郎(父)は、娘の私から見ると家庭内ではどう対応すればいいか困る人であった。

 

 

少なくとも理想的な家庭人ではなかったと思う。

高校までの私は、まず一緒に過ごした思い出がとても少ない。仕事中心で、話しかけると不機嫌で、酒飲んで飯食ってる時は機嫌が良かった。

どの程度よくあることなのかわからないけれど、いわゆる「お父さんのお嫁さんになる!」みたいな幼少期は私には一切ない。父から言葉をかけてもらった記憶も非常に薄い。

 

そんな感じの、親しみを覚えない父親であることに加えて、ほんとどうしようもない。死んだ今でも思うけど、まじでクズい。

 

 

一方、父は仕事では頼りにされていたらしい。

総務の人曰く、父は分け隔てなく人と接する人でフレンドリーで、父を嫌いな人はいない。また父しかできない営業の仕事があったそうだ。

 

父はよく稼ぐ人だった。仕事でもそこそこ出世していた。子供としても、金銭的に物質的に困ったことは今までないので、家庭的ではなかったが家にお金を運ぶ役割はちゃんと全うしていたと思う。

そういえば、私は8月に父に連絡を取っていた。その頃も相変わらず忙しそうに出張していた。これも伝聞だが、定年間近でも仕事にやりがいを感じていたらしい。素晴らしい仕事中毒。

 

父の家族への向き合い方は、私の理想からは遠く離れていたけれど、でも仕事に対する姿勢は心から尊敬できる。人に必要とされる仕事をしていたし、会社にとって必要な人だったのだと思う。

 

 

大学進学まで実家暮らしをしていたころの私の記憶では、上述したように父は家庭的ではなく、どのように接するのが良いのか困るというか、ぶっちゃけ話しかけ方もわからない相手であった。母に一度「父とは得体が知れなくてどうすればいいのかわからない」と嘆いたことがある。たぶん高校生か大学生の頃だと思う。

 

 

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手繰り寄せると楽しかった記憶が見つかった。

 

向き合い方が分からず、距離感も変わらず、親しみも持てず、死ぬまでよくわからない父であった。

でも父はずっと「父」であったのだろう。せっかく懐かしもうとして記憶を手繰り寄せるのに、それでも把握するのが困難な多面性とか、経済的な部分を除けば全く家庭的ではないところが、やはりそのまま「父」であったのだと思う。

 

 

ただ、私もこのよくわからない状態では良くないと思い、どうにか交流を持とうとしていたのだ。

 

我々は学生同士で同棲することになったので賃貸マンションの保証人が必要で、勇気を出して父にサインしてもらった。これは母ともモヤモヤしていた時期なので、仕方なく父に頼んだのだけど、結果、夫と一緒に食事もできて楽しかった。

 

結婚後、私が東京に用があった時、泊まらせてもらったり、私の友人と3人一緒に飯食った。その時もよく飲んでた。楽しかった。

 

あと用事があった東大まで道案内してくれた。最近タブレット使えるようになって、Googleマップが便利だと言ってた。案内もタブレット片手に送ってくれた。本郷キャンパスに行く途中の坂がすごくて息切れしてた。

 

上述した8月に連絡を取ったのが最後のやり取りになった。この時「仕事頑張って」と言った私に「ありがとう、からだに気をつけて!!」と返された。

今は「お前が言うな!」と思う。あと「仕事頑張って」じゃなくて「病院行けよ!」って言うべきだったな、と後悔もしている。

 

 

他にも思い出した。

私が持病で苦しんでる時に気を使ってくれる人だったな、とか。

本当に出張多すぎて「空飛ぶお父さん」って家族の中であだ名で呼ばれてたなぁ、とか。

家にはいなかったけど、お土産買ってきてくれたなぁとか。今アメリカで使ってるバッグ、そういえば父のお土産だったわ。

そういや、お父さん私が一人暮らし始めた頃に遊びに来てた。出張があるとかで。一緒に飲んだ。それも楽しかったなぁ。

 

 

私が父と距離を取ったのは、みちをはずれた問題が表に出てからなので、それを無視できていたらもっと仲良くできたのかもしれない。そしてもしかしたら、私が父に思う困惑は、父も私に抱いていたのかもしれない。本人は「当事者の問題」って言ってたから。

 

 

 

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おわり。いつか死ぬので、今生きねば。

 

父の死後、色々と考えていたことについて記録を残しておきたくて、整理のために記事にしている。

 

正直、父親のくせに娘から「得体が知れない」と書き残されることや、死後ののしられることに関しては、「ざまぁみろ」と思っている。私は自分が自覚していた以上に父に対して怒っていて、そしてこの記事は私の復讐なのかもしれない。死人に口なしで、大変都合がよろしい。

 

父は61歳の誕生日を迎えた後に死んだ。

父の訃報から数日後、私と夫はサボっていたジム通いを復活させた。食生活も見直して、魚と豆類の比率を上げて、糖質の量を少し減らしてみた。ポジティブが空回りしている気がするけど、なんか「ちゃんと生きよう!」と思って。

 

だって、人生は短いし、人は死ぬのだ。絶対死ぬ。

 

もし私の人生が、父と同じ60年程度なら、あと30年くらいだ。すごく少ない気がする。

 

なんか、嫌いな事をする時間なんてないんだなって思う。少なくとも、自分で納得できること以外に割く時間はない。ぼんやり生きてたら、あと30年なんてあっという間なのだ。

 

頭では当然に理解していたことを、脳みそにブスっと突き刺されたような感じで、感覚的に知ってしまった。

 

 

私はあと30年、どう生きるのか。どこで死ぬのか。誰とどう時間を過ごして、一人の時間は何をして、何を食べて、逆に何を食べないのか。

 

最後になったが、久しぶりに会ったというか、LINEで電話した親戚がやたらと優しくて、最近顔出さなかったことを後悔している。罪悪感というか…。上述したように、実家を避けていたここ数年なので、余計に。

 

来年の夏は初盆になると思うので、久しぶりに実家に帰ろうと思う。

ていうか、実家の母と喧嘩してる場合ではない…。

 

 

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