分かり合えないと諦めることから対話が始めるーコミュ障におすすめの本
2019年3月14日こんにちは!ミドリムシです!今日は『wあかりあえないことから』という本の紹介です。
私は最初、鳥井弘文さんの「協調性を捨て去り、社交性を身につけて、それでも僕らは生きていく。」というブログ記事を拝読し、すごく共感して、参考文献の平田オリザ著『わかりあえないことから──コミュニケーション能力とは何か』(以下『わかりあえないことから』と省略)も読みたくなって、購入しました。
めっちゃいい本だったので、ぜひコミュニケーションについて困難を感じている人に読んで欲しいと思い記事にました。
Contents
『わかりあえないことから』は人付き合いが苦手なコミュ障に読んで欲しい本
『わかりあえないことから』は、自分のことをコミュ障だと思っている人にぜひ読んで欲しい本です。
私も自分はコミュ障だと思っているのですが(プロフィール)、コミュ障にも色々あると思うんですよね。
例えば、
実際のコミュニケーションの際に挙動不審になってしまうとか…
うまく喋れないという身体的な現象を伴う場合とか…
この本を読んで救われるのは、強いて言えば、
他人と交流を持つのがめんどくさいとか、人間嫌否傾向がある人かもしれません。
私も他人と交流すること自体が面倒だと思うタイプののコミュ障なのですが、似たような方はきっと救われると思うので、読んで欲しいですね。
平田オリザ『わかりあえないことから』はどんな本なの?要点と読後の感想
ざっくりいうとこの本は、
そもそも、みんなお互いに、わかりあえない。
全部まるっとわかりあうことはできないけれど、それでもお互いに共有できる部分を模索して、そのために対話して、より良い未来のために共存したい。
という本だと私は理解しています。
同じ日本語を話す人同士だと「話せばわかる」とか思いませんか?
無意識にわかってもらえると思い込んで、実際は相手にわかってもらえない、とか…
逆に相手を理解できなくて、絶望してしまったり…
このような、わかりあえるという前提を見直し、わかりあえないという前提で始めようという本なのです。
前提を「わかりあえない」にすることで、私は肩の力が抜けて楽になったような気がします。
他人と交流する気力がわいてきたというか…
わかりあえるという前提で生きていると、
わかりあえなかった時または理解してもらえなかった時に、すごく面倒くさくなって、もう一度力を振り絞ってコミュニケーションをとろうという気力が失せてしまうけれど、
でも、「そもそも、わからん!」となると、
面倒くささという絶望をまだ感じていないので、まだ頑張れる気がするのです。
先に「わかりあえない」と理解しておくことがポジティブな諦めような認識で、そこからは「わかりあえないのはしょうがないから、お話しましょう!」となります。
コミュ障が共感した平田オリザ『わかりあえないことから』の内容
①そもそも我々は「わかりあえない」
心からわかりあえることを前提とし、最終目標としてコミュニケーションというものを考えるのか、「いやいや人間はわかりあえない。でもわかりあえない人間同士が、どうにかして共有できる部分を見つけて、それを広げていくことならできるかもしれない」と考えるのか。
―『わかりあえないことからーコミュニケーション能力とは何か』第八章
多様性って簡単に言ってもしっくりこないかもしれませんが、
つまり、私たちは様々なコンテクストの中に生き、個人的な背景や状況は、個人個人によってまるで異なるということです。
SNSが普及して、考えていることを色々な人がアウトプットしているのに対面すると、似たような趣味の人でも考え方が異なっていたり、同意できない意見を述べていることも多々あると思います。
私たちは、みんな違った人間なのです。
そうすると、厳密にお互いのことをわかりあえることなど、もはやありえないのかもしれません。
ちょっと寂しい気持ちですか?
でも、私はわかりあえるという前提から出発して、そしてお互いの差異を認識してしまって、
「お互いに違うのだ」「違うのでわかりあえないのだ」と絶望するよりも、
お互いにわかりあえないという前提から出発して、「そこはわかる」「ちょっと共感できる」という部分を発見していく方が、なんとなく気楽な感じがします。
私のようなコミュニケーションを重苦しく感じるコミュ障は、「わかりあえない」という絶望がなければ、だいぶコミュニケーションへの面倒臭さも軽減されると思うのです。
②対話とは、勝ち負けではない。
対話って何だと思いますか?平田氏は下記のように記しています。
「対話」は、AとBという異なる二つの論理が摺りあわさり、Cという新しいが年を生み出す。AもBも変わる。
―『わかりあえないことから』より引用
お互いに変化してもいいという部分に、私はハッとさせられました。
今までなぜが、鉄壁の情報と論拠をもとに対人論戦に挑まなきゃならんと私は思い込んでいたのですよね。
確かにディベートなら戦いですけど、でもそうじゃないなら、お互いに緩やかな変化があってもいいのかもしれないです。
異なる価値観と出くわした時に、物おじせず。卑屈にも尊台にもならず、粘り強く共有できる部分を見つけ出していくこと。
―『わかりあえないことから―コミュニケーション能力とは何か』より引用
勝ち負けではなく、お互いに変化し、着地点を模索する。
そして、対話すること、説明することを面倒くさがらずに、その場から退場しないこと。
自分の殻に閉じこもりがちな私を含めたコミュ障は、お互いにわかりあえないということを出発点に、変化を恥じずに、説明をすること。
私たちコミュ障に必要なのは、何も無理してパリピになろうとするのではなくて、
もう少しだけ、相手に説明して、お互いに言い分を聞いて、変化できるところは変化し、差異があっても無理に適応させようとしない、そういう地道なことなのかもしれません。
おわりー平田オリザ『わかりあえないことから』はコミュ障を救う本かもしれない
日本語の本に飢えて買った電子書籍だったのですが、期待していた以上に救われた心地の読後感でした。
わかりあえる前提だと、わかりあえなかった時の絶望感がはなはだしく、そこから腰を上げてコミュニケーションとるのも凄い気力が必要だと私は感じているので、だからいっそのことコミュニケーションとりたくないコミュ障になっているのです。私の場合。
あと、海外在住コミュ障あるあるだと思うのですが、
- 日本だとコミュ障だけど、海外にいて旅行してるとなんか話せるとか、
- 日本人以外と交流している時は対話できるとか
こういう海外に出るとコミュ障が治るタイプの場合も、前提が「わかりあえない」に変わるからコミュニケーションとれるようになるのかも?なんて思ってみたり。
関連記事:やっぱりコミュ障だぜ!根が深いぜ!という続きのような記事
他にもこんな記事を書いて自分を励ましています。