【コミュ障】「わかってほしい」気持ちが傷になり「どうせわかってもらえない」と臆病になる
2021年10月6日すごいコミュ障な管理人ですが、以前書いた『わかりあえないことから』の記事では、「絶望しないで対話を続けよう」と意気込んでいたのに、現状では全然うまくいかないんですよ。この記事を書いた時の勢いはどこに行った?
どうせわかってくれない、から出発して、じゃあ頑張って対話しよう!という方向に舵を切れない、バイタリティがない。
むしろ、どうせわからないなら、いっそ最初から断絶してしまえば楽だなと思ってしまう。
で、気づいてしまったのは、心の奥にあった諦めと、悲しさ。
「どうせわかってくれない」と思いつつ、本当はわかってほしくて、理解してほしくて、泣きそうになる気持ち。
今回は、「わかってよ」という小さい頃の私を、大人の私が理解してあげようという記事です。似たような経験、絶望感、悲しさを持っている人に寄添える記事になっていれば幸いです。
Contents
フランス義理家族を眺めて認識した幼児期の私と母親との関係性
うちの場合、父は仕事でほぼ不在で母は専業主婦という家庭だったので、母親と交流する時間が圧倒的に多く、また家の中には他の大人がいない核家族でした。つまり家の中の大人(母親)との関係性において逃げ場がない環境。
そして私の母親はかなり感情的な人でした。
感情的な私の母親というのはつまり、子供の感情よりも母親自身の感情を優先するというか、子供の感情を認められない人。
一方、フランスの義理の家族、ちびっこ義妹ちゃん一家を見てみると、私が育った環境とは異なる部分が見えてきます。
親は可能な限り感情的に子どもを怒鳴らない。説明し、諭し、それでもちびっこ義妹ちゃんの癇癪が収まらない時は、クールダウンさせるための方法をちびっこ自ら取らせるようにしている(例えば「自室に行きなさい」)。常に「気持ちはわかるよ」というスタンスで、その上で大人の事情を説明していました。
フランスの義理の家族の場合、子どもの癇癪、子どもの意志を前にして、大人が怒りに任せて大声で叱ったり、怒鳴り声で脅したり、抵抗する子供をお仕置き部屋に引きずって行くなどの、大人の暴力性をもって子供をコントロールするやり方は、タブーとして認識されていたし、極力避けるべき行動であるというのが共通認識でした。すごい。
これは私的に結構、大きな発見でした。
私は怒鳴られていたし、大声が怖いから従うという幼少期だったし、成長して恐怖心がなくなってからはただひたすら面倒くさかった。面倒くさいので従う、従順なふりをしなければならない10代でした。
私が育った環境はちびっこ義妹ちゃんの家とは異なり、母親が感情的になることで子供を支配するというものだったのですが、実母はこの環境を、彼女の感情を優先させる事を表して「母親が感情的に怒るのも大事よ~」と言っており、それに対して「自己弁護だなぁ」と、高校生の私はぼんやり思っていたのを覚えています。
「誰もわかってくれない」なら、諦めてもよくね?というコミュ障の姿勢が発展
「私のお母さんは、私のことをわかってくれない」と感じた記憶は、古い記憶で幼稚園時代にさかのぼるのです。
幼稚園に行くのが嫌だったし、弟と遊べと言われるのも嫌だったし、おやつと称して食べたくもない自己満の手作りお菓子が出てくるのも嫌だった。嫌な気持ちは癒されることなく、今も残っているのです。
象徴的な事件(エピソード)、その名も「マドレーヌ地獄事件」をご紹介しますね。ぜひ笑っていただけると嬉しいです。
母親がマドレーヌを作ってくれたんだけど、まあ美味しくなかったんです。美味しくないのになぜか大量に作るので、ずっと食べていた記憶があります。来る日も来る日も、口の中の水分を奪われる手作りマドレーヌ…。
ある日「今日のおやつもマドレーヌよ」と言われたので、限界だった私は勇気を出して「食べたくない」と不満を口にしました。するといたく悲しまれて、そして不幸なことに私の絶望は解消されることなく、マドレーヌ地獄は続いたのです(今でも、この会話をした絶望の場所を覚えているので、地元で地獄の幼少期ツアーできますね)。
あ、ちなみに私は祖父母の家の近所に住んでいた「マドレーヌおばちゃん」のマドレーヌが大好きだったのです。それに対抗して母親はプライドを満たしたかったのかも?と思います。
他にも、どこかにも書いたかもしれない「うさぎの手袋事件」とか「母と娘に秘密は無いのよ事件」とか「こっそり塗り絵事件」とか「靴下の中にミツバチ事件」とか「アトピーは私が悪い事件」とか、私の中で解消されない悲しい感情(心理的な傷)を作った出来事があるんですが、どれも母親は私を他者として尊重せず、罪悪感を含むネガティブな感情でコントロールしようとしていたできごとでした。
これらの出来事毎に不快感を表すと、私は「わがままな娘」として母親に認識されていくのです。しんどい。
「嫌だ」というと母は怒るし悲しむし、私は否定されるし、となると、言うのはためらわれるのです。特に罪悪感で私を支配しようとするのが心底居心地が悪くて、そういう状況になるのを避けようとするんですよ。子供なりの生存戦略でしょうね。
好きでもないものを好きだと言ってみたり、興味のない物を覚えてみたり、将来の夢に母親が喜びそうな職業を言ってみたり…というのは上の「マドレーヌ地獄」の頃からなので多分5歳頃からでしょう。
でも嫌な気持ちをうまくやり過ごすこともできず、時々大爆発するように私は「嫌」を発し、その都度母と私はギスギスしていました。母は「わがまま」と私をジャッジすればいいだけなので楽だったかもしれませんね。
わかってくれないなら、それはそれで、という諦め
中学~高校くらいには自覚的に、「お母さんがわかってくれないなら、母に合わせて気に入るような子供でいよう」「うまいこと家の金を使って遠くに進学しよう」と思っていました。このころは割とギスギスした関係は表面的には穏やかになっていたはずです。
思い返せば、これは別に思春期が終わったとかそういうのではなく、どうせわかってくれないなら、うまいこと使って行くところまで行こう、と思っていただけで。その頃には母親については諦めていたし、うまいことやれば肯定してくれて学費も湯水のごとく使ってくれるとわかっていて、わざとやってた。
この頃から、今の私のコミュニケーションの傾向、「どうせわからないのだから、離れよう」「どうせはなしても理解してくれないのだから、本心からモノを言う必要はない」ができてるみたいです。諦めるしかなかったんですね。
余談①母親なのか、家政婦なのか
そういえば、この頃だと思うんだけど、私は、自分の母親とお手伝いさんという一般的な職業で働く人の違いが理解できず、一度すさまじい諍いを起こしていたはずです。他はそんな頻繁な諍いはなかったと思うんですが….いや私的には、喧嘩というより本当にわからなくて、不安だったんですよね…。
当時は心から、母親がおらず、しかし家事をしてくれる人がいるなら、それはあまり現状と変わらないなぁと思っていたんです。つまり、私にとっての母親の存在意義わからなくて、私は当時本当に真面目に困っていたんです。さすがに10代になれば、こう考えるのが道徳的に間違っているというのは頭では理解していたので、自分がおかしいのかもしれないと不安でした。すごく不安。
母親は心底悲しんでいたみたいで、この件については直接的に言ってごめんね、と思っています。実際の私の困りごとについては、わたしと母親は心理的に希薄な結びつきのせいだと思うので、特に申し訳なく思っていないんですが。
余談②この傾向は議論好きなフランス大衆文化になじまないんよ…
「どうせわからないのだから、離れよう」「どうせはなしても理解してくれないのだから、本心からモノを言う必要はない」という私のコミュニケーションの傾向。
本当に仲良くなるまでは表面的な事しか話さないし、自分が本当に心から思っていることはよっぽどじゃないかぎり言わないし、優等生的な「正しい答え」しか返答しないし、常に逃げ道を作っている私の会話の方法。
どうもフランスの大衆文化では、私のように表面的な返答をするのはあまり好まれないのではないか?という気がしているんです。というか圧力を感じています。なんかね、義理の家族はやたらと議論するんですけど、そういうのに参加せねばならぬ、というか。
私は、上述したように、「どうせわかりあえないのだから」と諦めるているので、議論や会話に自分の本心を混ぜる事の意味がわからないし、意味のないことはやりたくない。諦めた人間が本心を語るなんて、ものすごい労力で、面倒くさいことの極致。嫌だし意味が見いだせないし、その上面倒くさいときたら、実行する理由がないんです。
つまり、目的のない議論をしたくないんですね。
じゃあ何がどうであれば私は会話や議論ができるのかというと、共有する情報や知識や価値観が近い人間であれば楽なのだ。似たような価値観はつまり、
反ワクチンではないとか、陰謀論者じゃないとか、科学的な基準をもって物事を判断するとか、感情よりも理性を優先するとか、物事を大きな構造的パースペクティブでとらえるとか、その上で他者に対して共感的であるとかやさしさを示すとか、そういうの。
「いや、これ意外と誰とでも話せるのでは?」と思うでしょ。ところがどっこい。難しいんだなぁ。
白状すると私はこういう点で価値観が異なる人と交流した経験が少ないのが原因なんだろうと思うんです。今までは周囲にいるフランス人も、似たような価値観の人が多かったからね。社会的なサークルのど真ん中で、純粋培養されていたのかもしれません。
本当は母親に「ありのままの私」を受け入れてほしかった。
小さい頃の私は何を求めていたのかというと、ただ私の感情を出すことを許可してほしかったというか、受け入れてほしかった。
別に、実際に幼稚園に行くのも、弟と遊ぶのも、食べたくないけどおやつを食べるのも、べつにその行動や活動自体は良いのだ、致し方ないことだってあるから。
ただ私の感情を受け止めてほしかった。「嫌だ」をジャッジしないで聞いてほしかった。
何で「嫌」なのか、
なぜそのように思い、感じ、生きているのか、
そういう「私」を構成する感情や思考を知ってほしかったし、認めてほしかった。
「そっか、嫌なんだね。でも幼稚園行った方がきっと勉強になるよ」でも良かった。
「弟と遊ぶの嫌なんだね、なのに遊んでくれてありがとう」って言ってくれたら、嬉しかった。
「食べたくなかったんだね、知らなかった!あなたはどんなおやつが良いの?」って聞いてほしかった。
「受け入れてほしかった」という思いが傷になり、期待してしまう
前から自分のことを重篤なコミュ障だなと思っていたけれど、私は他人に対する一般的な信頼感をこじらせているんでしょう。
受け入れられなかった幼少期が傷になっているので、そもそも「どうせわかりあえない」という諦めの姿勢であり、かつ同時に「否定されるのが怖い」と思っている。なので他者と積極的にコミュニケーションを取ることができない。
なので、逆に言うと、「この人は~な傾向の人だと推察されるので、このような話をしても大丈夫だろう」という状況証拠の積み重ねからの判断を常に行っており、私なりに慎重に、話しても大丈夫そうな人、心から交流できる人を求めているのです。まるで喉が渇いてたまらないかような、でも飲めない、というような。
そして自分の中で「ああ、この人は大丈夫そう」と勝手に推測し期待でいる相手が現れると、話してみるんだけど、その期待がその通りにかなわないと、絶望感がすごいのでしょう。期待が大きいだけに、絶望感も大きい。
つまり私なりに慎重に調査を重ねた末に相手がその通りの人物でなかった場合、かなりダメージが来るんですが、たぶんそれがクソみたいな義母の旦那だったんだと思います(アジア人の養子を受け入れたんなら賢明な人なんだろうと思ったんだ…)。
おわりー微毒母から離れて「遠くに行きたい」と思って、遠くフィンランドまで来たコミュ障な私
こういう生育環境でも良い側面もあったと思うんです。
母親に反発し続けた結果、私は彼女が読まないような本を読み進めることに没頭するようになったりね。
母親が口癖のように言ってたのは、「大学生の頃、同じ学部の人に『~の本も読んでないのか!』とバカにされて悔しかった」という話。こんな話をするんだから、さぞそれ以降は勉学に励むのだろうと思うだろうけど、そんなわけでもなくて、彼女は自分の領域の専門書を読むこともなく、コネで3年働いて辞めて父と結婚して母親になった彼女。愛読書はハーレクイン小説な彼女。
「行けるところまで遠くに、母親から遠ざかろう」と思っていた私にとって、「母親に似ない」ということも彼女から遠ざかる事の一つだったのです。
「生意気だ」「口が達者だ」とジャッジされていたけれど、あの1つ1つの反発や私の意志の表明は、その1つ1つがあの瞬間の私にとっては必要なものだったんです。今思えば私の「遠くに行きたい」「母親の影響から逃れたい」という心理的な叫びだったのだと思います。
「母と娘の間に秘密は無い」というのに激しく反発した10代のあの日、あれは明らかに親との分離を望んだ私の叫びだったのです。
中学生の私はカントの『判断力批判』を手に取ったのも、そんな逃避の一環だったのかもしれないと今でこそ思います。多分授業で出てきた小難しい本を読んでみたいと思っただけで、当然、全くわからなかったんだけど、「日本語に翻訳されているのにわからない本があるんだな!」という衝撃に、世界が明るくなったのを覚えています。幸福でした。
あとは同じ動機でダンテの『神曲』を読んでみたんです。版画がたくさんついていて読みやすくて「地獄の博覧会みたいだな」という思ったのですが、カントとは違い、『神曲』は「教科書に載ってる有名な作品でも普通に面白いんだな!」という感想。今調べたら、19世紀のドレによる版画を元にした豪華本でした。
あとは片っ端から聖書を読んでみたり、シュタイナーの神智学を扱った本を読んでみたりしました。もちろん、全然わからなかったけど、わからないことが面白かった。母親から離れるために、10代の私にとって活字と小難しい本は武器だったんです。
ちなみに、これらの本は普通の市立図書館にありました。とても良い図書館ですよね。
その後も、私がちょっと変わった大学に進学したり、さらに大学院に進学して欧州に2回留学したり、勉強を続けていたり、というのも、地下水脈は同じ「母親からの分離」だと思います。ずっと、遠くに行きたかったんです。
そんな私は、実母から遠く離れた北欧フィンランドで、彼女とは異なる生活をしているけれど、専業主婦であることが喉に引っかかった小骨のように不愉快で、今も「私は母のようにはならないだろうか」という不安と隣り合わせな日々です。
こういうモヤモヤした記事を読みたい方は、
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を見ると、微生物がない頭で思考をこねくり回してる様子を観察できます。
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