これはいわゆる冬季鬱なのか、低い自己肯定感が顔を出したのか

これはいわゆる冬季鬱なのか、低い自己肯定感が顔を出したのか

2022年2月22日 0 投稿者: goldeneuglena

メンタルがしんどい感じがしている。

先の記事で、「減量してたから割と元気だったかも」とか書いてたけど、減量終わった途端、毎日の指標というか黙々と集中する対象がなくなってしまったようで、みごとに精神的に迷子。そのせいで本来持ってる自己肯定感の低さが突然再登場した感じ。お久しぶりです、憂鬱な私~。

今回の記事は、憂鬱な私の記録。毎回似たようなことで心の調子が悪くなるから、記録することで次に生かしたいね。

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季節性のうつというより、元来の自己肯定感の低さに由来?

まさか、遅れてやってきた冬季うつか?とも思ったけれど、ぶっちゃけ最近のフィンランドはだいぶ明るくなってきてるし、それに灼熱のサンアントニオでも鬱々としてたことがあるわけよ。多分私のこれ、日照不足に由来する憂鬱ではないんじゃない?

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やる事がなくなったタイミングで抑うつ感

調子悪くなったなと自覚したのは、減量が終わってあと。手持無沙汰になったな、と感じたんよね。

まあでも、食生活を変更するわけだし、慣れるでしょうと思ってたんだけど、手持無沙汰感が悪化してしまった。

というのも同じ時期、他の活動も停滞気味だったんだね。

まず進めていた個人的プロジェクト1が私のコントロールから離れて停滞中。これは私ではどうしようもない。吉報待つのみ。

じゃあ個人的プロジェクト2(こいつが本命)はどうかというと、これは困難すぎて進めることができず…。さらに困難の理由は私の能力不足が原因なので、不甲斐なさもMAX…。しんどい。

またライフワーク的位置づけの当ブログも停滞中。これもコロナ禍&北欧の深い雪の影響で記事にできることが少ないというのがベースにある理由なので難しい。書きたい内容じゃないけれど、ガッツリ調べればどうにか記事になりそうなのが2本あるけど、そもそも書きたいと思ってないのに向き合うのは地獄….

そんな感じて各方面停滞してる状況で、先週腰をやらかしたのね。

これは私が全面的に悪い。フォームが良くないのに重いダンベルに挑戦してしまった。日常生活は遅れるけど、歩くのも痛いし、普通のスクワットはギリギリできたけど腹筋はできんし、ダンベルで胸やるにも体幹が安定しなくて無理。

という訳で、私自身がやるべきと思っている事をできない不満足な感じがジワジワとメンタルを侵食していた2週間だった。

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わかりやすい成果とそれを与えてくれるものに依存してる

でもさ、生きていれば上手くいかない時期だってあるんよ。

複数の活動が同時に停滞するということだって、全然あり得る。

人間だから常に一定のリズムで成果を上げることができない時だって、全然ある。

と、頭では理解しているので、これを私の今の時期にも適用して、停滞しているならそれはそれで受け入れてしまえばいいのに..と思う。少なくとも親しい他人や夫がこのように悩んで鬱々としていたら、私は「そんなときもあるよ」と彼/彼女らを抱きしめるだろうに、私は私に優しい言葉をかけられない

私は何もない私自身を許せない。

完了するタスクがない自分が許せないし、有意義に時間を過ごせない自分に価値が無いと思うし、何もしていない自分には存在する価値が無いと思う。

動いていなければ生きる価値が無いと思う。

しかし、そればかりだと疲れてしまう。

目の前のタスクをこなすことで「生きててよい」という気持ちになるということは、裏を返せば自己有用感が満たされない限り「生きる価値が無い」と心の底で思っている、ということなのだと思う。私は私に基本的人権を認めてないのか…。革命が必要なのか…。

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本当にやりたい事は何年も挫折し続けている

またこれらのタスク自体が「上っ面」な感覚もある。私にとってこれらは、本当にやりたい事(上述の個人プロジェクト2)をやるための代償というか、手段として設定しているタスクなのだ。どのタスクも嫌いではないけれど、とても表面的で、嘘っぽい。

こんな表面的な作業でも、数字や成果を追うことで精神を支えられているようになる。

そしてこのわかりやすい数字(成果)やそれを与えてくれるタスクが失われると同時にメンタルを崩しがち。しかも数字や成果という依存先があったことで隠れてた本当にやりたい事が常に未達成なので、二重にダメージを食らってるんだと思う。わかってる。こじらせているんだ。

こうやってメンタルが低空になった時、色々なものに対して反応していく中で、「収入を得る仕事をしたいのか?」とも思う。いやそれもない訳ではないけれど、結局それも数字を追いかける表面的なタスクになるんじゃないか…と思う。

なぜかって、日本出るまでは仕事して私の名義で収入があったけれど、その時も今も、落ち込んだ時の私のメンタルに変化がないから。

きっと収入を得る仕事をしても、成果を出したい事(やりたい事)が自分の満足いく状況ではない限り、私はまた同じことに陥るよね。

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おわりにー自己肯定感が低い人は、自分で決断する物事を増やすと良いらしい

私が不定期で時々陥る心の問題は、全体を通して自己肯定感の低さが原因なんだろうな、と思う。何をいくら頑張っていて、どんな成果をあげようが、心の奥底で自分に対して条件付きの愛情しか示せないのだ。

こういう、自分自身をそのまま受け入れられない人は多分私だけじゃないし、それでも頑張って生きている人もいるから、甘ったれんなとも思うんだけど、私も誰かも、しんどい状況になりたくてなってる訳ではないじゃんね。

こういう自己肯定感の低さが露呈してしんどさが増してる場合、自分で決断して自分の意志でその活動を行い、結果がどうであれそれを自分で受け入れるというのが回復につながるらしい(検索すると似たようなことを書いてる人が多い)。

逆に言うと、自分で決めてこなかった感覚のある人、または他者の評価を元に決断していた傾向の人は、自分が決断の軸になっていないので自分のことを肯定する術(または機会)が少なく、自己肯定感が低いらしい。

ということは、この記事では多く書かないけれど、過干渉系微毒母による育児や教育はこんなところで尾を引いているんだろうと思う。

と、このように自分で決定すること自体が自分自身を受け入れて存在を肯定することに大切であるというなら、今年に入ってから設定したGoogleカレンダーと毎日のTo Doリストのルーティン化、これはまずかったのかもしれない。

最初は習慣化の助けになって良かったけれど、予め設定しておくのが過ぎると、リストの内容が当初は自分で決めたことなはずなのに、まるで他者によって決定されたことのように感じてしまうのかもしれない。

私はどこかで記事にも書いたけど、何かを継続したり努力したりは好きな方だと思う。タスクをこなしていると安心するし、「私は使える人間~」という自己有用感が満たされて「生きててよいのだ」という気持ちになる。

それに毎日自分で決定するのが面倒くさいからルーティン化しようとしたけれど、過度な設定は自己決定感を弱めるのかもしれない。

じゃあ、To Doリストを作りつつも、その都度自分でやるか決めるとか、自分の決定を挟むとどうかな。もうちょっと楽になるかな。

そういえば今年の目標に、積極的に休むって書いたと思う(Twitterだったかな)。筋トレについては身体の調子を考えて都度休む判断をしてるけど、そういうのも積み重ねると自己肯定感も少しマシになるだろうか。

何事もバランスなんだ。でも自分の心の声を聴くのが下手な私は、このバランスを見つけるのも難しいのかもしれない。

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