ポルトガル旅行、回顧録③ポルト周辺のロマネスク教会堂(2023年7月)

ポルトガル旅行、回顧録③ポルト周辺のロマネスク教会堂(2023年7月)

2023年10月1日 0 投稿者: goldeneuglena

※2023年9月現在、記事が大変取っ散らかっているけれど、もう数か月下書きを書き続けているので一旦出します。一応情報元のリンクは張ってるので、本記事に記載の情報については各自調べるなど裏取りしてください※

私的ポルトガル旅行のメインイベント、それはロマネスク建築巡り!

当記事ではポルト滞在中に訪問した周辺のロマネスク建築について、私のためのお勉強を兼ねて写真といっしょにシェアします。

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ポルトガルの中世についての歴史など前情報

ロマネスク建築はコインブラ以南では数は多くはなく、どちらかというとコインブラ以北に多い。特にポルトから北~東に集中している。

というのも、ポルトガルが位置するイベリア半島におけるキリスト教の遺構は、中世における同地のイスラム教国家からの※国土回復と関連しているからだ。

(※いわゆる「レコンキスタ」をその名称で呼ぶことについては、まるでそもそもそもそもキリスト教だけの土地でもなく、キリスト教徒だけの土地であったかのような印象を与えるのでふさわしい名称ではないのでは、という議論があるらしいが、当ブログでは便宜上「レコンキスタ」または「国土回復」と呼ぶことにする。)

イベリア半島では8世紀初頭にんはイスラム教国家ウマイヤ朝によって支配されていたが、これに対してイベリア半島北部のアストリアでキリスト教国家アストリア王国が誕生し、この時期からレコンキスタが開始されるとする。720年頃以降、ぽつぽつとイベリア半島のキリスト教勢力がイスラム教勢力を南に押しやり始め、さらにウマイヤ朝の内部分裂もあり、なんとフランク王国(キリスト教)がイベリア半島へ進出する。

で、10世紀初頭までにはキリスト教の国レオン・アストリア王国がポルトのドゥエロ川以北を支配していたり、後ウマイヤ朝が優勢だったり、イスラム教の小国ができたりで、なんか小さい国がごちゃごちゃして、11世紀初頭のイベリア半島はキリスト教勢力がちまちまと国家を再編してたりする。

このレオン王国は多分徐々に南下したのか、11世紀中ごろにはコインブラ以北を支配下におさめるまでに。で、なか戦いの功績をたたえて、ブルゴーニュ公アンリがこの地に領土をもらい、ポルトゥカーレ伯となるんだけど、このブルゴーニュ公もといポルトゥカーレ伯アンリ(ポルトガル語ではエンリケ)さんはなんと独立を企て、これがポルトガル王国になるわけだ。レオン王国の当時の王様アルフォンソ6世からすると、自分の娘婿が独立しちゃったわけで、飼い犬に手をかまれたというか、握手したら腕まで取られたというか、そんな感じ。

ポルトガル王国の初代王はアフォンソ1世で、ポルトゥカーレ伯(ブルゴーニュ公)の息子にあたる。で、この息子アフォンソ1世が首都コインブラを拠点にリスボンを奪還したりした人らしい。

この辺までの参照したURLはWikiと→https://pt.wikipedia.org/wiki/Rom%C3%A2nico_em_Portugal あとこれもWiki→ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%AB%E3%83%88%E3%82%A5%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AC%E4%BC%AF%E9%A0%98

すごく雑な説明なのでイベリア半島史の人からは怒られるかもしれないけれど、これで読み取れるのは、キリスト教勢力の拡大はイベリア半島北部からで、拠点①はポルト周辺。その次に南に勢力を伸ばしてコインブラが拠点②

なので逆に言うと、コインブラよりもさらに南では中世の初期ではキリスト教会堂なんかが残せるような状況ではなかったんだと推測できる。

しかも、ポルトガル王国はブルゴーニュの人間が作ってやがる!ブルゴーニュといえば、天下のクリュニー修道院があるね!中世ロマネスクの文化を担っていたクリュニー会の発祥の地ブルゴーニュとも関連があるってのがだいぶ興味がわく。

そういえば、ポルトガル王国の首都コインブラ、この街で「なんかやたらフィンランドっぽい旗を見るな?」と思ったけれど、あれはボルゴーニャ家(フランス語読みだとブルゴーニュ家)の旗らしい。

そんなわけで、ブルゴーニュとの関係性が強いポルトガル王国なんだけど、教会堂建設でもクリュニーとの関連性がどの程度言えるのか?みたいなのが興味がある点だね。

これと関連した余談だけど、コインブラ旧大聖堂を計画した人物がロベールというフランス人で、現場監督もベルナールというフランス人がやってる。のちにソエイロという人に引き継がれる。wikiを読むとこういう建築を作った人々は「修道士」と表記されている。フランスはおそらくクリュニー修道会の坊主の皆さんがポルトガル王国の教会堂を作っていったんだろう、ということだ。クリュニーからコインブラって、飛行機移動できる現代人にとっても長距離だと思うんだけど、馬か馬車くらいしか移動手段がなかった(よね?)中世にこんな移動できたってのが本当にすごい。

というわけで、不完全ではあるけれどポルトを拠点として訪問したロマネスク建築の写真と情報をまとめていこうと思う。

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São Pedro de Rates教会堂

ポルトガルに現存するロマネスクの教会堂の中でも古い事例。クリュニー会との関連あり、ベネディクト会系男子修道院。

あ、あとこの画像におけるバラ窓は20世紀の修復。

画像引用元:SIPA ( http://www.monumentos.gov.pt/Site/APP_PagesUser/SIPA.aspx?id=5133 )

平面はラテン十字形、三身廊式、4つのベイ(梁間)は不均衡で、一口に近い2つのベイはほかの2つよりも小さい。とランセプト、アプシスの祭室は半円形の平面。

タンパンはこんな感じ。

主題は「Christ Pantocrator, 全能者ハリストス/全能者キリスト」。中央の楕円形の中にあるのがキリストで、左右にいる何か(悪魔か)を踏みつぶしてる人物は誰なのか不明。wikiによると、イコンの場合はキリストの左手に聖書、右手は祝福の形であるのが一般的とあるが、このタンパンでは手が見えない。アーキボルトには写真でも天使がみえるが、使徒も彫刻されているらしい(どれだろ)。

ファサードの柱頭は

こんな感じ。特にどれがどういう主題歌とか、詳細な情報がなくて、ロマネスクあるあるなデフォルメされた人だったり、不思議な動物だったり、というのが彫刻されているらしい。

これは北側の写真(頑張ってくっつけたの)。身廊の持送りには幾何学っぽい感じの彫刻があったり。でも動物や人物は確認できない。

入口周辺はこんな感じ。タンパンは残ってないし柱頭も特には。

アプシス。

アプシスのこの窓周辺のアーキボルトで、北側から二番目がこれ。私の推しアーキボルト。幾何学図像が色々盛沢山。

軒下はこんな感じ。牛が見えるんだけど、他はよくわからない。あとトウモロコシ(後述)もある。北側と比べると軒下にわんさか具体的な図像があるのでアプシスは賑やかで楽しいねぇ。

これは南側の入り口周辺。タンパンの主題は「犠牲の羊」。

下のほう。この左右の狛犬みたいなの何ですかね。ライオン?誰か似た事例とか教えてください。

南側の全景は取れなかったんですけど、こんな感じで特に持送りに彫刻もなく寂しいね。

で、この教会堂の初期の建設はブルゴーニュはクリュニーの修道士をわざわざ呼び寄せて建てたという記録があって、再建されてもクリュニーの修道士の手が入ってる。何かクリュニーっぽい要素があるのかなぁ、と思って調べたけど力尽きてる。

文化財のサイト http://www.monumentos.gov.pt/Site/APP_PagesUser/SIPA.aspx?id=5133

ウィキ https://pt.wikipedia.org/wiki/Igreja_de_S%C3%A3o_Pedro_de_Rates

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Salvador de Paço de Sousa修道院

ポルトガルの文化遺産政府系サイトによると、956年、D. Trutesendo Galindesによって創建されたものの、この時代の遺物は出土していない。約一世紀後、大幅な修復が行われたが、これはBraga司教区に特徴とされるプレロマネスク建築だった。さらにその後、1088年には新しい教会堂の建設が行われた。12世紀初頭には既にベネディクト会が教会堂を所有しており、同会が上述の新しい教会堂の建設費用を出していたことが確認できるが、教会堂のどの部分がどの時代のものなのか正確なところは不明点が多く、実際の教会堂はロマネスク様式、ゴシック様式、17世紀から19世紀の部分があるとされる。

`平面はラテン十字形で三身廊式。教会堂ファサードはこんな感じ。

この西側の部分(内部では身廊と側廊の第一ベイ)は、他の部分よりも古い特徴を示しており、C. A. Ferreira de Almeidaによるとコインブラやポルトとの関連性が指摘されている(モノグラフィのp.256)。

とても個人的な面白ポイントは、SIPAのディスクリプションではこのファサードの持ち送り部分を「ロンバルド帯」としている点。なるほど、ここでは小型の盲アーチではなく、わずかに壁から突出した控え壁状のものでもなく、またこの二つで構成された中世建築の一要素ではなく、彫刻が施された持ち送りを「ロンバルド帯」と呼ぶんですねぇ。

あともう一つ気のになることがあってですね。

どこの写真の右側、木に隠れた部分なのだが、さらに近づいて見上げてみると…

なんと丸窓(オクルス)から人間が!これは何なのだ?と思って調べてみたけれど、この彫刻自体についての言及は今のところ見つけられていないです。めちゃくちゃきになるので誰か助けて、教えて。私が勝手に「窓からこんにちはおじさん」と呼んでいるこれ、類似する図像や事例についてご存じの方いらっしゃいましたらご連絡お待ちしております。

ちなみにこのファサードの上部にあるバラ窓も近づいてみると…

人間?または猿?と思しき生き物の頭と、何か…手のような?よくわからないものがあります。しかもここだけね。ちなみにこのバラ窓の仕切りの部分(ガラスがはまっている個所)は19世紀の修復です。

ファサードの中央に戻ってきてさらに見上げるとこんな感じ。

持送りに彫刻が施されており、豚や犬やヤギや牛なんかの家畜と思しき動物たちがいますな。

で、中央付近には、なんか坊主っぽい雰囲気の人物がいたり。

気になるのはこれ。なんか荷物っぽいものを肩に乗せてたり、それを降ろしているように見えます。何だろうこれ。荷物じゃなくて枕かな。しらんけど。

動物の中ではこれが気になってます。とがった耳からは猫っぽいかな?とも思うんですが、なんか爬虫類っぽさもある…。

あとは右端にあるこれ。トウモロコシ…?松ぼっくり?

この「トウモロコシ」と似たような彫刻がIgreja Românica de São Pedro de Ratesのアプシスの軒下にある持送り(写真右)にある。同じものなのか、はたまた一方はトウモロコシでもう一方は松ぼっくりなのか、いやソフトクリームなのかもしれない…。そういえばと思って、ちょっと前に行ったバルセロナのSan Pau del Champにもあるねんな。

建築遺産情報システム http://www.monumentos.gov.pt/Site/APP_PagesUser/SIPA.aspx?id=5317

多分文書館っぽい政府系サイト https://servicos.dgpc.gov.pt/pesquisapatrimonioimovel/detalhes.php?code=70583

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Igreja de São Pedro de Ferreira

文献上では、10世紀中ごろ(956年)には既に言及されている。しかしこの時代の建築物は一切の追っておらず、残っているもので最も古いものは11世紀末から12世紀初頭のもので、1180年から1195年にかけて現在のロマネスクの教会堂が建設されたとされている。

画像引用元:SIPA ( http://www.monumentos.gov.pt/Site/APP_PagesUser/SIPA.aspx?id=5096 )

元は修道院で、現在残る教会堂は単身廊にアプシスが一つ。アプシスの平面は、外観からは半円形だが、内部では多角形。

ファサードのこの穴だらけのアーキボルトよ。なんなのこれ。「修復の失敗にしてはひどい」と思ったら、なんとこれ当時のものらしい!ポルトガル語では[favos circulares]というそう。はじめてみたのよ。

モノグラフィによると、これと似たのがスペインはZamora大聖堂とSan Martiño de Salamancaにあるという。検索してけど確かに穴ぼこのアーキボルトがあるっぽい。

柱頭などの彫刻は、ブラガ大聖堂(Braga)São Pedro de Rates教会堂との関連が指摘されている。 が、実際にどうなのかは私にはわからない。いつか行こう。またポルトガル大聖堂が所有していた修道院であったので、何かしらの関連がみられるだろうか。

建築遺産情報システム:http://www.monumentos.gov.pt/Site/APP_PagesUser/SIPA.aspx?id=5096

ロマネスクの道: https://www.rotadoromanico.com/pt/monumentos/mosteiro-de-sao-pedro-de-ferreira/

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memo

ポルトガルの教会堂の様式というか、建築的な影響関係または関連というのは、どうもいくつかの流れがあるようだ。モノグラフによるとその中でもコインブラ=ポルト系、Zamora-Compostelle系、Braga-Unhão系の3つがこの教会堂で確認できるとある(p.)、などがある。そんな中でクリュニー的な何かがあるのかないのか、あったら具体的にポルトガルの中世建築において何なのか、どの部分なのか、とかもうちょっと調べたい。

あとFerreiraの教会堂は、Sousaの彫刻の感じとはだいぶ違う感じするし、分類してる人絶対いるでしょ、読ませてほしい。

後個人的に気になるのは、ロマネスク建築の建設にクリュニー会の修道士が旅して関与したというなら、なんでロンバルド帯はロンバルドっていうんだろう、みたいなのがやっぱ気になる。あと「ロンバルド帯」っていう呼び方とモノの関係というか定義も、割とあいまいで、揺らいでて面白いよねぇ。

あとイベリア半島のクリュニーの動きも手持ちの資料でちょっとだけ読んだんだけど。

イベリア半島とクリュニーの関係性としては、1050年代頃までには確実にあって、フェルディナンド1世はクリュニー修道院の院長ユーグ・ド・スミュールとともにクリュニー修道院に寄付を行う取り決めをしている。でも実際のところどの程度クリュニーの影響の物証が残っているかというとそれが少ないというか、発掘しても何物出てこんかったらしいく、この時代のスペインとブルゴーニュの関係は制度上のものにすぎず、教会堂の再建にまでは及んでいなかった、という見解がある。

その後、1100年前後には、イベリア半島の重要な司教区、例えばBlagaなどではクリュニー会修道士の重要性が増た。

これってここで書いた教会堂の建設年代されたころなんだけど、でも一方でこれらのイベリア半島の修道院や教会建築へのクリュニー会的な要素の導入としては珍しく、それは西ゴート族の教義に同流していることが根底にあるかららしい。いかにして伝統的なイベリア半島の教会堂建築が新しいクリュニー的なロマネスク建築に置き換わったのかは残っているものを正確な順序で並べることができない限り不可能だけど。でも知りたくない?

もともとイベリア半島のキリスト教修道院としては、貴族の中でのシステムと西ゴート族Visigothに導入されたベネディクト会系のシステムの二種類があったわけだけれど、これらの建築的役割はクリュニー会の建築的なものと合わなかったという(つまりクリュニー以前の建築的な役割があったということだろうか。)。このあとクリュニーのシステムが導入されるp.358。

あともう一個気になったんだけど、ポルトガルの教会堂って、鐘塔が交差部とか内陣の上にない場合が多いのね。フランスだと結構交差部の上に鐘塔が載ってることが多くて、イタリアは教会堂とは別の建造物として横に建てられることが多いんだけど。あと残ってる塔もブルゴーニュの優美な鐘塔とかよりは、がっつり正面に構えた物見の塔、マッシブな守護の塔という感じで、土地と歴史が感じられるのも良いね。

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おわりに

言い訳でこの記事を終えようと思う。

今回のポルトガルのロマネスク訪問は事前準備が足りなかった。正直に言うと時間がなかったというか、気力が足りなかった。その前は研修で余裕がないまま、語学学習が佳境を迎え、そんななかで次のステップの準備をしていて、中世建築好きを名乗るのも恥ずかしい調査不足のまま現地に向かった。ただ、悔しい思いをしたので目が覚めたともいえる。準備をしていれば、もっと情報にアクセスできる。情報にアクセスできれば解像度が上がる。

あと、今回まではとにかくロマネスクを訪問して写真を撮るだけだったんだけど、実際に撮った写真を見返したり調査したりしてて、正直写真の数が少ない。特に柱頭。今ヨーロッパに住んで好きな中世建築を見に行けるというのはものすごい幸運だと思う。だからこそ、できるだけ記録したいし、その記録は体系的に行いたい。次回からは観察ノートをつけようと思う。

参考サイト

SIPA(ポルトガル建築遺産情報システム)… SIPAの画像はクリエイティブクリエコモンズなので、当ブログでも本文中で引用させていただいた。

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