ゲイに間違えられることはいけないことなのか?無意識の差別
2019年3月10日最近、差別ってなんだろう?とよく考えています。
この記事では、自分がゲイに間違えられることに対して何かしら思ってしまうのって、もしかしたら無意識で差別的な意識を持っているからじゃないの?という記事です。
結論を先に言うと、誰しも差別的な発言や行いをしてしまうものだけど、でもできるだけ、差別したくないよね。ということです。
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Contents
事の発端
先日ツイッターにて米国に留学中の日本人学生がアメリカの常識をリスト化して述べていた。
その中に、「長財布はゲイという認識」とあった。
これはただのネタの投稿で、本人は何か悪気があったわけではないと思う。
むしろ他の項目とともにアメリカの常識を共有する親切心で行われたものだと思う。
その証拠に、ゲイの友人がいることや差別する趣旨ではなかったことが後ほどツイートされたはずだ。
何度も書いておくけれど、今回私は個人攻撃するつもりは全くなく、その発言自体に注目している。
でも何だか、「長財布はゲイという認識」とか、また別の人がリプライで発言したバックの形状についてのことなどを眺めながら、とてもモヤモヤしてしまった。
もやもやポイントの分解―ゲイと長財布と常識の構造
何で私はモヤモヤするのか。
私自身は生物学上も、内面も、女性である。LGBTQの知人もいないわけではないがそれほど親しく交流する間柄ではないので、私の当事者意識は比較的薄いと思う。
ここからは私のモヤモヤを探っていきたい。
①差別的な内容を「常識」としてリスト化し共有するということ
まず最初に私の頭に浮かんだのが、「ゲイに間違えられてはいけないのだろうか?」だった。
つまり、常識としてリスト化して共有するという行為にモヤモヤしているのかもしれない。
あのリストの趣旨は「常識として知っておおいた方が良いですよ」、ということだったと思うので、つまりは軽い注意喚起のようなものだと私は考えている。
もっと言うと、「長財布を持ってゲイに間違われることはマズイことですよ」と言ってるように読めてしまう。
「ゲイ」というカテゴリーに対して「自分たちと違う」「ので間違われると困る」とすること。
これはまさしく差別だろう。
ある特徴のある他者を記号化してリスト化して、自分たちとは違うと表明するとき、その裏側にはその記号を持った人への否定がある。
くわえて、これは悪意を持って発言されたものではない。
無意識に差別的な内容である、という点も、モヤモヤかもしれない。
②長財布=ゲイという記号化とラベリング
次にモヤモヤするのは、「長財布=ゲイ」というようにゲイにラベルを張っていること。
これは私の想像の範疇をでないが、「ゲイが長財布を持っている」というよりは、「長財布を持っている人が少ないのでゲイくらいだろう」ということなのではないかと思う。
実際、アメリカ人は身軽に移動する人が多い気がする(学生や観光客はバックパックを持っていることも多いが)。
私が知る日常の範囲では、スーパーではよくポケットから財布を出しているし、財布をポケットにそのまま入れて出かけたりする人も多い。
そもそもキャッシュレス化が進んだ社会である。カードのCMでもランニングウエアのポケットにカードだけ入れて出発する、なんていうのもある。デビットカードがあればどこでも買い物できるのだ。
なので、本来の構造は
ゲイ=長財布ではなく、
長財布=珍しい→ゲイの持ち物
ということなのではないかと考えている。
※余談だが、似たようなことで日ごろ私がモヤモヤしていることが他にもある。代表的なものだと「フランス人=働かない」である。私の周囲がソースで母数が少ないが、とても働くフランス人だっている。優秀で集中力のある人ばかりであることを述べておきたい。
差別とは何か
今回の「長財布=ゲイ」問題(勝手にそう呼ぶが)の他でも、例えば最近の耳にする「ブラック・フェイス」をめぐる色々な出来事や「コンマリ問題」などの差別についてのニュースにおいても、この「無意識に差別的な」という視点が重要な気がする。
①「差別」の辞書的な意味
まず差別とは何かについても、メモとして残しておきたい。
Wikipediaの「差別」という項目によれば、
差別(さべつ)とは、存在の否定」であり、「特定の集団や属性に属する個人に対して特別な扱いをする行為」である。また同項目にある国際連合の定義では、「差別には複数の形態が存在するが、その全ては何らかの除外行為や拒否行為である。
手元にある大辞泉の「差別」の項目2番目に
「取り扱いに差をつけること。特に他よりも不当に低く取り扱うこと」
またGoogleで「差別とは」と検索すると、一番上に「差をつけて扱うこと。分け隔て」とある。
これを読むと、対象とその他などに差をつけて、かつその差をもって対象を扱うこと(何らかの行動・行為を対象へ行うこと)を差別という野だと思う。
②無意識な差別
KKKに所属する人が過去に行ったブラック・フェイスはそもそも根底が差別的なものであるので明らかだ。
しかし例えば今回のツイートや、某アパレルブランドのブラック・フェイス、某作家によるコンマリ嫌いなどは、悪気があってやったわけではなく、本人が「差別」だとは気づいていない。
では、どのあたりが「差別」にあたるのだろうか。
コンマリさんへの差別的発言と言われているものを引用する。
「白状します:私はこんまりが嫌い。なぜなら美的な感覚で言うと、私は散らかってる側の人間だから」
「彼女の言葉については、個人的には、彼女が膨大な数のアメリカ人視聴者に対して英語で喋らなくても別にいいけれど、(こんまりが英語を話さないことが)超大国としてのアメリカの衰退を示唆しているのは間違いない」引用元:https://www.buzzfeed.com/jp/saoriibuki/barbara-ehrenreich-konmari
文面だけ読むと、アメリカの衰退を話題にしているし、部屋が散らかってる自虐も入ってるしで、私はそんなに悪意のある内容でもないような気がしてしまう。
ただこれは、膨大な数のアメリカ人視聴者に対して英語で話さないことがアメリカの衰退を示唆しているとも読める。もっと踏み込むと、「アメリカにいるなら英語話せよ」ということを述べており、差別的だと批判されているようだ。
このツイートの後に謝罪していることからも、本人にはやはり差別しようという意識はあまりなかったのだろうが、
無意識であれ、公用語のないアメリカにおいて、非英語話者を排除しようとする構造が見えるので、差別ということなのだろう。
私の差別的な部分
意識的・無意識的な差別について整理してみると、さらによくわからない沼に足を取られるような感覚になる。
上述のコンマリさんの件では、私はそれが差別なのかがわからなかった。いくら移民大国であろうと、スペイン語話者が多かろうと、「アメリカにいるのだから、活動するには英語が必須だろうよ」とすら思っていたのだ。
こう考えると、普通に悪意なく生きている人間にも、差別的な部分があることに気づく。
私の自覚が感知する部分でいえば、私には他には学歴差別主義的な側面があるし、在仏であるにもかかわらず全く仏語がしゃべれない人に対してバカにしている側面もある。自分がそこまで大したものを持っていないにも拘らず、である。
例えば、私がパリにいた頃、こんなことがあった。
フランス到着後は移民局で滞在許可をもらう必要があるのだが、色々と手続きが終わると最後は受付で名前を呼ばれる仕組みになっている。
そこでアジア系の女性が名前を呼ばれているにもかかわらず、返事をしないということがあった。
理由は不明だが、フランス語のアクセント付きの自分の名前に反応できなかったのかもしれない。私は割と早い段階から、なんとなくそのアジア人女性の名前が呼ばれていると気づいていたのだが、非常に眠かったので我関せず荷物を抱え込んで目をつぶっていた。
受付の人は何度も名前を呼び続けているものの、一向に返事はない。
受付の人は、もういないと思ったのか
”Madame OO, disparu dans la nature! ”
つまり「マダムOOは迷子ね!」と何回か大声で叫んだ。しかもその言い方が芝居がかっており、大仰で面白かったので、待合席の我々も笑ってしまった。
当時の私は寸劇を見て笑っているだけだと思っていたのだが、
最近になって色々と思い返すと、あの時私は笑いながら、
「仏語圏に来るなら、せめて自分の名前くらいはわかるようにした方がいいだろ」と思っていたのだ。
これはコンマリさんの件と似たり寄ったりの差別的な思考だ。
しかもこの「フランスに来るならフランス語くらいできろよ」という差別的思考を、呼ばれたことが分からない彼女と同じ外国人である私がしていたのだ。
私自身、他にも自覚していないだけで色々な差別的な思考を持っているのだ。
おわりに-無意識の差別を意識する
いじめや、明らかなヘイトは非常に目立つので、このような明らかな差別をしていない人々は「自分はこんなに差別的なことしていないので大丈夫」と傍観者になってしまっている。
しかし、明らかな悪意をもってする差別以外にも、無自覚な差別というものがあるのだ。社会派の作家も無自覚に排他的であったのだ、きっと誰にだってある。私にだってある。
じゃあ、どうすればいいのか。
今のところ私は、意識的にならざるを得ないと思う。
無意識に他者をラベリングし、排他的な判断をしていないか。
何かのラベルの有無によって、相手への態度を変化させていないか。
ふと気づいたときに振り返る程度でも、私たちの隣人がもしかしたら平和に過ごせるかもしれない。
アメリカに来てからよく考える「自分のアイデンティティとは」「他者を「~人」と判断すること」そして人種や国籍についての関連記事はこちら:
「白人がそう言えば差別」に終始しているように思えます。冒頭のゲイのツイートに関しても元は「白人がこう言っている」つまり白人が少しでもネガティブな態度を異人種に向けると全て差別として認識する、ということですよね。こんまりさんが仮にドイツ人やらフランス人だったとしたらあなたはそこに差別的要素を見出したでしょうか。黒人やヒスパニックでもコロナ騒ぎでアジア人差別をしていました。アメリカ在住ならご存じと思いますが差別するのは白人だけではありませんよね。
能力ではなく肌の色によって賃金が違うだとか、教育が受けられないなどなら確かにそれは差別です。でも日常の何気ない会話の揚げ足取りをして差別か否かと考えるのは神経過敏だと思います。例えばとあるイギリス人男性がアメリカ人男性に「割礼してないだと、お前は不潔だ」「性病だ」とまぁ、いわゆる宗教的な差別を言われまくってましたが当のイギリス人男性はただ笑って「汚くないよー」「清潔だよー」と全く気にしない様子でした。これがもし日本人男性であれば差別と認識されたと思います。ある意味受け取り側のメンタル面の問題なんです。
相手に権威を見出していれば一言一言にいちいち差別だと過剰反応するでしょうし、平等な相手だとわかっていればただのありふれた口喧嘩のようなものです。人種差別などという大げさなものではなく、ブスが嫌いとかデブは嫌だとかそういうのと変わりません。そういう人はどこにでもいるし変えるために時間を割くのも無意味です。人を変えるより自分が変わった方が早い。
ふー様
コメントありがとうございます。
まず、本記事においては人種差別(白人対有色人種)に限定した内容ではなく、「白人」という語を本文中で1度も使っていないことを注記させていただいたうえで、コメントに返信させていただきます。また白人を差別をする仮想敵としても設定していません。
私は差別とは、マイノリティ対マジョリティまたは弱者と強者という構造が成立する場合に多く出現しうるものではないか?と思っています(その場合に限定されないこともあるかもしれませんが…)。それは場合によってはどの人種も、国籍も、性別も、相対的に被差別側になるということだと思っています。
そしてこの構造は、個人による「相手に権威を見出して」いるような私的な感情によるものではなく、ある国(または場所)の歴史や人種的な構成、社会的な分断によって存在するものだと考えています。そしてその社会構造にまで反映された根深いものがアメリカの黒人差別なのかな?と思っています。
ふー様のコメント本文中にあるイギリス人とアメリカ人の話においては、その発言が行われた場で、発言者やそれを受ける側の間にマイノリティ(または強い)/マジョリティ(または弱い)の関係性に該当する人物がいるのか否かによって判断が変わると考えます。
例えば、アメリカに留学中のフランス人がアメリカで、その出身(国籍)や母国語等の本人の努力では変えようのない点において、マジョリティ側からからかわれたり排他的・否定的な言動を受けた場合、それは構造的には差別だと考えます。仮にそのフランス人が、アメリカではマジョリティである白人であっても、です。
また例えば、日本において、外国人だからという理由で、他の日本人やアジア人と同じように扱われない(怖がられる、または人種を理由に肯定的/否定的に扱われる)というのも、日本人(マジョリティ)による外国人(マイノリティ)への差別だと考えます。それが白人であっても、構造が該当すれば差別の対象になりえます。
ですので、コメントにあった「こんまりさんが仮にドイツ人やらフランス人だったとしたら」という仮定については、もし「アメリカでは英語を話せ」に類するような発言があった場合は差別だと考えます。人種についてはコメント欄に記載がないのであえて触れませんが、差別的な何かが発生した場所や領域において、その人に関連する何らかのマイノリティに属するか否か、という点で変わるのでは?と思います。
ただ、ふー様が「平等な相手だとわかっていればただのありふれた口喧嘩のようなものです。」とおっしゃるように、差別的な構造に該当する事象がその場で成立していたとしても、それを当事者本人が差別だと思うか否かは相手との関係性によるかもしれません。気心の知れた仲間なら許せる場合もあるかもしれませんね。
私自身も、私と夫(白人フランス人)の間には強い信頼関係が成立しているので、アジア人であることを会話の中である軽くネタにされてもそこには悪感情がないことがほとんどですし、私も「くそフランス人!」程度のことは毎日のことです。
しかしながら、ネイティブほどに流暢ではない私のフランス語についてからかわれたり、アジア人差別の記号である「釣り目を強調するしぐさ」に対しては私は断固拒否します。私も夫の日本語をからかいません。
これらは差別という「攻撃」として既に成立している記号であり、換言するなら会話の最中に突然ナイフを突きつけられたようなものだからです。
そしてふー様が「でも日常の何気ない会話の揚げ足取りをして…」とおっしゃるように、このような差別は無意識で、まさに日常の何気ない会話で行われるのでしょう。私はむしろ、無意識に差別的である人こそが日常の些末な会話に差別を表出させてしまったのだろうと考えます。悪気はないけれど、というものです。
私も本文中に書いているように、自分でもかなり差別的な部分があるなと怪しんでいます。そして悪気はなくても、私の軽率さでもしかしたら周囲の人を傷つけてたくないな、と思っています。
以上、とても長々と書かせていただきました。コメントいただけて嬉しかったです。