【ロマネスク】アヌシー=ル=ヴュ(Annecy-le-Vieux)で鍾塔を訪問【中世建築】
2021年2月19日ロマネスク建築はフランスのいたるところにあるけれど、ロマネスクの教会堂についていえば、何だか両サヴォア地方やアヌシー周辺には少ない気がする?
と思っていたけれど、Googleマップ眺めてたら見つけてしまった!
アヌシーのお隣アヌシー=ル=ヴュ(Annecy-le-Vieux)にロマネスクの教会堂の鍾塔があるじゃないか!
という訳で、美味しいラムレーズンのパンオレザンを探すついでに鍾塔を探しに歩いて行ってきました!
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アヌシーの隣にあるロマネスクの教会堂の遺構:le clocher de romanに行く
さて、ロマネスクの鍾塔を探す旅は前回の記事からの続きです。
白鳥や湖の写真も見たい人はこちらからお読みください。
途中で雨が降ってきたので、バス停で失礼してPan&Gatôで買ったパンを食べます。
アヌシーはまさに観光地!という感じですが、お隣のアヌシー=ル=ヴュの方は住宅街という感じ。ゆるやかな丘を登ります。
今は住宅街っぽいのですが、この丘がローマ帝国が衰退して北方から人が南下してきた時、すでに現在のアヌシー居住していたガリア人やローマ人が避難したのがこの辺の丘なのかと妄想すると胸が熱くなりますね。
坂を上りきると、古い町並みに挟まれた鍾塔が見えてきました。
鍾塔が遠くから見えるこの瞬間がとても好きです。宝物を見つけた時の感嘆というか…一気にテンションが上がります。
鍾塔の手前にこんな古そうな建物があったり。今は人が住んでそう(アパートかな?)なのですが、元々は何だったのか気になります。
さて、鍾塔に接近してみましょう。
元々ここには鍾塔だけではなく教会堂のですが、現在は残っていません。塔だけ残っているのです。
なかなか立派ですよねぇ。
一部に他よりも白い石が使われているのが気になります。特に上の方。
Wikipediaによると19世紀末には鍾塔の状態が悪く、その頃に鐘が下におろされたのかも?ということなので、もしかしたらこの鍾塔の一部白い組石は修復の跡かも???どうでしょう。
拡大するとこんな感じ。
水平の線がきれいですね。真ん中の水平線には持送りのようなものがついています。
壁に張り付くようにして見上げてみると、こんな感じ。遠目から眺めるとわからないゆがみが見えたりして面白いですよね。
ちなみにMonument Historique。Wikipediaによると12世紀のもの。
元々はこの鍾塔はNotre-Dame教会堂の内陣部分にあったようですが、教会堂の方は現在は完全に失われいるそうです。隣にある教会堂とは別。
フランス革命の時にやはりこの辺りの教会堂は被害を被ったようですが、この鍾塔だけは「革命者たちの目を攻撃するとがった尖塔( flèche pointue pouvant offenser l’œil révolutionnaire )」を持っていなかったことから破壊を免れたそう。
おわりに―アヌシー=ル=ヴュっていう名前の由来は?
一応述べておくと、アヌシーの旧市街はヴィエイユ・アヌシーと呼ばれ、これはこの記事で紹介しているアヌシー=ル=ヴュとは別です。
Wikipediaを読んでいると、アヌシーの隣のアヌシー=ル=ヴュと呼ばれる地区の名前の由来を推察することができます。
現在のアヌシーがある一帯は古代から活発な経済活動の場であったのですが、ローマ帝国が衰退し北方から他の民族が南下してくると古代アヌシーの街も略奪や破壊に遭い、5世紀には完全に破壊されてします。
その後も複数回にわたる火災や破壊に住民はアヌシーのあるフィン平原を手放し、隣の丘に中心部を映します。この丘があるのが現在のアヌシー=ル=ヴュです。これが8世紀の話。当時は王の所領Aniciacaの農地であったようです。
アヌシーが再び「アヌシー=ル=ヌフ」として出現するのが11世紀以降なので、それ以前の街の中心部はアヌシー=ル=ヴュだったといっても良いのかもしれません。なのでこの丘のある一帯を「古いアヌシー」と呼ぶのでしょう。
ロマネスクの教会堂みたいな中世の比較的早い時代の遺構がのこっているのも、この辺がそこそこ栄えていたということの名残なのでは?と妄想を重ねます。
ちなみにこの鍾塔はアヌシー=ル=ヴュの役所近くにあり、周辺にはレストランなども少しあります。コロナ禍がなければ、きっと私たちはこのレストランで食事して帰ったでしょうに…。
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